日記5月下旬
2004年6月29日(火)
金とサッカー
 最近は「チャンピオンシップマネージャー4」というサッカーの監督シュミレーションばかりやっている。
 金曜日からほぼ毎日。ゲームに関しては一度はまってしまうとつい他事を忘れて没頭してしまう。今回もそうである。
 サッカー全然分からないのに。
 このゲームは(多分)マニアックなもので、結構サッカーの知識が要るようである。が、”プレス”とか”ゾーンディフェンス”とか”ビハインドなんとか”なんていわれてもそれがいったい何を指すか全く分からない。だから適当にチェックをつける。負ける。
 4-4-2とか4-5-1とかのポジショニング(?)もわけも分からずに適当に配置する。当然、負ける。
 負ける中でも、なんとなく勘でやっていくうちに段々とチームが強くなっていく、分からないままに補強をしていく。なんとなく勝つ。
 で、今現在リーグ中盤で2位の成績。わけが分からないなりにやっているのも結構面白い。負けは負けなりに。野球の監督なんかは男の一度やってみたい職業としてよくあげられるが、まさにあれである。実際は人間関係なんかでよっぽど図太くないとやっていられないだろうが。
 それにしても出来ればこの「チャンピオンシップマネージャー」、シリーズで野球版が出てくれると個人的にはもっと楽しめるのだけれども。開発がイギリスのようだから野球は無理なのだろう。
 ちなみにぼくが担当しているチームは中国リーグの上海チームである。イギリスの何とか、イタリアの何とかみたいな有名チーム(具体的には知らない)も、中国のチームもぼくには全く同じようなものだ。ただ選手のパラメーターと年俸が違うだけなのである。
2004年6月24日(木)
どうしても
 今日は美空ひばりさんの命日ということだ。NHKBS昼の映画枠でやたらに彼女の映画をやっていたのはそういうことなのであった。美空さんといい、石原裕次郎さんといい、かつて「大スター」といわれた人は数多いが、特別この二人のみがとりあげられることが多いのは、本当の意味で大衆的人気を得ていたからなのか、この二人の遺産で喰っていかなければならない人が多いからなのか、彼らがスターとして絶頂期にあった時代を知らぬ身のぼくには分からないことだ。仮に遺産で喰っている人たち(昨日も和也さんがでていたが)の仕掛けだとしても、その遺産が金になる程の支持が得られる、というのは即ち「国民的人気」の証明ではあるのだろうが。それにつけても錦之助さんや三船さん、鶴田浩二さんなどといった「大スター」の冷遇(?)ぶりを見るにつけ、選挙の度に軍団を動員する都知事一家など、この二大スターの陣営の「神話作り」の才能には脱帽せざるを得ない。ぼくには嫌悪の情しかわかないのだけれども。
 それは別として。今日のBS昼の映画は美空さん主演の「風流深川唄」。これは前から見たかった映画で、予約録画して、観た。「仁義なき戦い」の笠原和夫さんの脚本で、著書(インタビュー構成だが)「昭和の劇」において監督・山村聰さんの演出をして「理性的な映画」と評していたからである。
 簡単に言えば料亭の若女将美空さんと本板(花板)の鶴田浩二さんが料亭の経営危機と身分の差(経営者と奉公人という)を乗り越えて結ばれるという物語である。
 予想以上に出来が良くて驚いた。山田五十鈴さん、杉村春子さんと、脇を固めている俳優さんが凄いこともあるが、脚本の構成力、破綻のない、緻密な伏線、台詞のインパクトと、非常にメロウな話なのにモッタリせず、かといって急ぎすぎない間の良い演出で、90分全くあきさせないのである。美空さんと、相手役の鶴田さんも引き裂かれそうになりながらも強い絆で最後は結ばれるという起伏のある愛情物語をきっちりと演じきって見せている。二人の感情の揺れにこちらも素直に、心地よく入っていけるのだ。
 と、同時にこの映画の舞台となったとおもわれる大正以前の時代を演じられるような俳優は、現在皆無なのではないかとも思った。俳優の質云々より撮影当時と現在とは時代が全く違うという感じだ。

 そういえばその笠原さんの「昭和の劇」、風流深川唄のエピソード中で山村聰さんが「主役と脇は格段に違う」、「主役はウソになってもいいから堂々として華やかな芝居をするべき」で山村さん自身主役のときと脇役のときの芝居のあり方を変えている、というくだりがあった。
 これは言い換えてみれば、「主役というのはその劇の中では絶対の存在」である(書いてみると極当たり前だが)ということだ。
 安倍なつみさんが主役の「仔犬のワルツ」が視聴率で苦戦している。視聴率というのも怪しげな指標だと思わないでもないが、テレビ番組の「価値」を決める指標としては一番大切とされているもののひとつである。だからそこら辺の基準がどうであれ、山村さんの伝でいけば、まだこのドラマをみていないぼくがいうのもなんだが、やはり、「主役」安倍なつみさんがその責を負うのは当然である、と思う。彼女の芝居の内容がどのようなものであっても。
 脚本が悪い、演出が良くない、誰が主役でも同じ、といった一見安倍さん擁護と思われる言質はじつは、「主役」安倍なつみに「主役」としての力がついていなかったと言っているようなものである。
 だが、女優としての「安倍なつみ」のキャリアは「キッズリターン」風に言えば「まだはじまってもいねえ」のである。また彼女ならこのような事実も真摯に受け止めながら、また、前に前に突き進んでいくだろう。そんな確信を勝手ながら、持っている。ぼくはそんな彼女を応援していけばいい、そう思う。
 
 今日は美空さんの影でどうしても忘れられがちだが、もう一人偉大な歌手の命日でもある。
 村下孝蔵さんも6月24日に亡くなられたのである。
 と、さもこの不公平な現状に憤慨しているように書いたものの、ぼくも今日の出勤時のカーラジオからその話題が出たのを聴いただけだ。
 村下さんに関しては、ベスト盤「歌人」一枚持っているだけなのでなんとも語るべき言葉も無いが、このCDの曲は殆どすべて好きである。確か中澤裕子さんが「初恋」を歌っていたと思うが、さすがに「ゆうこ」を歌うわけにはいかなかったのだろう。
 ちなみに村下さんの奥様の名前が「裕子」という。「ひろこ」と読むのだが。これもラジオの受け売り。
2004年6月21日(月)
同い年
 6月19日をもって中澤裕子さんが31歳を迎えた。
 この日から中澤さんとぼくは毎年同い年になる。2ヶ月強の間。
 月並みだが改めて彼女は若い、と思う。
 これはもう実感としてそう思うのである。
 ぼく自身の20代後半、特に27、8位からの老い具合というのは、これは恐ろしいものがあって、白髪もそうだが、突然ギックリ腰が襲ってきたときには一人暮らしのアパートで痛みで比喩でなくエビになりそのまま動けず、その痛みともう一生直らないのではないかという不安で涙が出てきた程である。
 更に30を過ぎて、もう一段、前に日記でも書いた記憶があるのだが、加齢臭が自覚された時、もう二度と自分には「青春」的なものがやってこないのだ、と大して「青春」的なことが無かっただけに余計暗然たる想いに駆られたものである。
 試みに、’73年生まれの有名人(労作!)を見ると女性アイドルがかなり多い。中嶋ミチヨ川越美和・田村英里子・宮前真樹・寺尾友美 ・加藤紀子・松野有里巳・羽田恵理香・瀬能あづさ・三浦理恵子・佐藤愛子・中江有里(敬称略)・・・。CoCo・Ribbonを中心に中澤さんがアイドルとして芸能界に参入した際には既に彼女達はアイドルとしてのキャリアを終えていたのであり、30代を迎えて未だにアイドルたりえているのは一人中澤さんだけである(三浦さんもそう呼べるかと思ったが、乳首を見せている)。後は完全にぼくの視界から消えてしまったか、たまにTVショッピング等そのくたびれたような笑顔を見るくらいであろう。
 それは勿論、「元モーニング娘。」という恩恵は多分に受けているに違いないが、社会人を経てこの世界に入ってきた彼女の覚悟や執念といったものが、結果的に同年生まれのアイドルよりも長くアイドルの地位を保ってきた理由かもしれない。
 「執念のアイドル」、というのも怖いのだが。まだまだいける。気がする。乳首も見せてないし。

 まだ乳首を見せてないといえば寺尾友美さん、もう一度見たい。切実に。
2004年6月17日(木)
辻希美−ここに幸あり
 昨日のBS日テレ「名歌絶唱−大月みやこ第2夜」にて大月みやこさんが大津美子さんの名曲「ここに幸あり」をカバーして歌っていた。
 数多いる女性演歌歌手の中で、大月さんは一番苦手としている歌手である。逆に大津さん及び「ここに幸あり」は演歌の枠を超えて好きな歌手であり、曲である。特に「ここに幸あり」は1人の女性が苦労の末1人の男性にその人生を託すという極めてパーソナルな曲であるにも関わらず、その雄大なメロディーと「嵐も吹けば 雨も降る」といった美文でつづられるドラマのスケール感は凄まじく、2人の男女の物語を超えた普遍性さえもっている。ぼくなどはこの曲が日本国国家でも全く違和感がないくらいに思っている。
 ところが、大月さんはこの壮大な曲をあの独特な、甲高くビブラートする粘着質な声で歌ってしまい、大津さんの太いこぶしからうねっていく、確信に満ちた、希望にあふれる原曲を、安手のメロドラマに変えてしまったのである(もともとこの曲は松竹メロドラマの主題歌らしいが)。人間には向き不向きがあり、歌手と歌の関係もまたそうであるはずだ。いくら昭和の名曲を歌う、という番組の趣旨があったとしても、その人の歌唱にその歌が合わなければそれは歌うべきではなかろう。これは悲劇である。
 カバーというのは安易にやるものではない。
 さて、この「ここに幸あり」を初めてレコーディングしたとき、大津美子さんは18歳。18歳で当時世界の日系女性に希望を与えたというこの曲を歌いこなしたのである。天才という言葉は安直に使うべきではなく、彼女のような才能の人にこそ与えるべきであろう。
 ちなみに大津さんのデビューは17歳である。
 辻希美さんが今日、その17歳を迎えた。歌唱力は17歳の大津さんに及ぶべくも無いが、彼女もまた紛れも無く天才である。

 安倍なつみさんが好きなぼくは安倍さんに敬意や愛情を示し、安倍さんもそれを返すような関係性をもった人達、つまり辻さんや新垣里沙さん、亀井絵里さんといった人達(安倍さんに敬意や愛情を示す人が彼女達だけでは無いが、それがより顕著に現れている、といった意味で)も好きになっていく傾きがあるが、その中でも辻希美さんは別格中の別格の存在だ。
 安倍さんと辻さんの関係を見て、ぼくは広澤虎造の代表作「清水次郎長伝」の次郎長と石松の関係を連想する。
 もちろん、石松は辻さんである。石松も辻さんも「馬鹿」である。しかし、それはあくまでも一般的な学力や少しの一般常識の話で、ということだ(これもあくまで芸能人辻さんのキャラクターの上でのこと)。
 だが彼女にも石松にも「生きるための機知(あるいは奇知)」や「人にかける思いやり」、「笑いのセンス」がある。これは学習によって磨くことが難しい、天性のものである。
 そして何より重要なことは、「存在自体が人を笑顔にさせ、幸せな気持ちにさせる」という稀有な才能である。これこそは天分としか言いようの無い、後天的には絶対に身につかないものであろう。石松は虎造による造形だが、彼女は現実にいる。確かにいるのである。
 安倍さんのエッセイ「ALBUM1998-2003」中の「34 泣けるなっちの誕生」の章にこんなエピソードがある。
 肉体的にも精神的にも余裕がなくなり、追い詰められた気分に襲われた安倍さんが「楽屋の隅」で「ぽつんとひとり」涙を流していると・・・
 『したらねぇ……ののがだまーってなっちのひざのところにきて、なんにも言わないでずっといるの。なっちの近くに。』
 この才を人は「天才」と呼ぶのではないか。
 辻希美さんは、その小さな体自体から「言葉」を発する。その「言葉」はぼく達凡人の口吻から発せられるもっともらしい「言葉」の力の無さを感じさせる。つまらない、心のこもらない慰めの言葉にも力はあるが、それはあくまでも「それなり」のものである。
 これから彼女がいくつになっても、例えぼくの視界から彼女が消えてしまう様な事態になっても、彼女はずっと人を幸せな気分にさせるあの笑顔を消すことは無いと思う。そして、彼女の体全体から発せられる「言葉」に勇気付けられる人も、いなくなることは無いだろう。
 辻希美に幸あれ、ではなく辻希美に幸あり、である。
2004年6月16日(水)
コンビニエンスストアーで買って来た豚肉の賞味期限
 昼間のコンビニで、レジの前にいたおっさんは筋子のおにぎりを買っていた。
 パート「おにぎり温めますか?」
 おっさん「これ温めるのか!」
 長年のモヤモヤがふっと解消した。
 筋子・明太子・ツナあたりは本当にどうなのか?
 そのコンビニでは飯は買わず、「ザテレビジョン」のみを購入。
 別に「松浦亜弥ミニ写真集」見たさではなく、毎週買っているからである。雑誌中では一番長時間当該ページを見ていたことは確かだが。本当に毎週買っているのである。
 ぼくは松浦さんに関してはほぼ興味が無い。だから彼女の出ているテレビや雑誌も殆ど目にすることが無い。その理由もあまり突き詰めて考えたことが無い。突き詰めるほどの興味が無かった、ということになる。これは単にぼくの好みの問題で、(当然ながら)松浦さんの芸能人としての資質や才能を否定しているわけではない。
 そんなすこぶる頼りない印象をもってこの雑誌を見る。彼女は様々な表情で写真に納まっている。
 非常に豊かな表情である。
 しかしながら写真の彼女はどれひとつとっても彼女の内面を見せようとしていない。そのそぶりも、ふりも見せない。笑顔も、済ました顔も、破顔も、思いつめたような顔も、彼女がここでどの様な感情をもって臨んでいるか、ということが一切判らないのである。それは記号的、と言ってもいい位である。
 あくまで主観的な思いだ。ここで彼女は彼女の内面を爆発的に吐露しているのかもしれない。あるいは他の写真で、舞台で、映像で、彼女の情感、内面を見ることの出来る機会が本当はたくさんあるのかもしれない。また、こんなところで簡単に内面なんか見せていられるか、ということかもしれない。
 しれないのだが、この写真の表情群を見れば見るほど、その思いは強くなるのである。そして、もしぼくが思っている通り彼女が意図的に(かどうかは本来問題ではないが)内面を見せないのであれば、それは彼女の職業意識の発露なのか、とも思う。あくまでも芸の世界に生きる「松浦亜弥」を見せている、個人「松浦亜弥」は見せたくない。といったような。
 もしそうだとすれば、彼女は非常に厳しい環境に自らを置き、自らを律していることになる。物凄く苦しい領域を敢えて歩いているのではないか。それこそ「美空ひばり」や「中村錦之助」等の「スター」と呼ばれた人々が歩いた領域ではないか。現在の、内面を見せなければ生き残りづらい芸能の世界で。

 それでも肉体は非常にリアリティーが有るのが素晴らしい。「くびれ」でも「樽」でも無い絶妙なウエストサイズ、そして股間直下の内腿にひっそりと、かすかに乗っている柔らかげな脂肪。黄色人種独持の肌の白さ。よくグラビアアイドルが肌に油を塗って艶出しをしている写真があるが、松浦さんの肉体には服を脱いだ瞬間から、既にうっすらと「脂」が引いてあるのである。「プロ」のグラビアアイドルには醸し出し得ない、そんなリアリティーを。
 素晴らしい、としか言いようがない。

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